会社概要

会社名 Bellanotte (ベラノッテ)
代表 望月 麻央
横浜営業所 神奈川県横浜市戸塚区川上町542-56
045-435-5382(平日10時〜20時まで)
E-mail info@bella-notte.jp
業務内容 洋菓子販売

プロフィール

〜三人姉妹の三女として愛知県で生まれました〜
5人家族の3姉妹の末っ子として生まれました。父と母は男の子だと思っていた様で女の子だった私に少し戸惑った様子だった。

洋菓子店経営の父と母、当時、私が生まれた頃は1番お店が忙しい時だったので私は生まれた時から家政婦のおばさんと姉に育ててもらいました。
忙しい事もあり家族でご飯が食べられるのは1年に1回の大晦日だけでした。
家族で旅行もした事が1度もなかったのです普通の家庭ではあり得ない事でもうちはそれが普通の事でそれが当たり前の事なんだなあと子供ながらに思ってました。

昼間は毎日家政婦のおばさんが一緒にいてくれて、夜は姉が2人で面倒みてくれました。

次女のんこ
赤ちゃんの頃から私の面倒を常に見てもらいました。
のんこがいたからお父さんやお母さんがいなくても寂しい思いはしなくてすみました。
いつもいつも、どんな時も私の味方で居てくれました。それは今でもかわらず私の心の支えです。


私のお父さん
小さな頃は毎日忙しくて夜中までケーキを作っていて私が寝ている時に帰って来ていたのでお父さんとはほとんど一緒にいれなかったけど、日曜日になると毎週おこずかいを500円くれました。私はその500円を握りしめて、お菓子を買ったり好きな文房具を買ったりしてました。 小さな頃はほとんどご飯も私一人で食べる生活だったけど、東京に出てからは、私が実家へ帰るたびにお父さんとおかあさんと3人で一緒にご飯を食べてくれた事私は一番うれしかったです。いつも無口だけど、陰でお父さんはいつも私を見守ってくれていた事に感謝してます。

私のお母さん
お母さんは幼稚園の頃たまに母が自宅に昼間にふらっと帰ってくる時があったのです。私はその時こう母に言ったんです。

「お母さんこんな所にいて大丈夫なの?早くお店に行ってお仕事しないとお客さんが待ってるでしょ?」

と子供ながらに言ったのです。母はこの言葉にびっくりした様子でそのままお店に出かけていきました 今でもこれは覚えてます。

私はお母さんの背中を見て育ってきました。おかあさんの笑顔を見るために。沢山のお客様が今でも毎日お母さんに逢いにケーキを買いにきてくれているのをいつも見てきました。1日も休まず働くお母さんの姿を見ながら大きくなりました。
そんなおかあさんを今ではとても尊敬します。
小さな頃から忙しいのにその間に学校の授業参観に来てくれた事。周りには当たり前の事でも私には一緒にいる時間が少なかった分、そんなささいなことがとても嬉しい事でした。


長女のひとみねーちゃん
12歳も歳が離れていたけど、その分沢山の事をしてもらえました。卒業式は忙しいお母さんの代わりにおねえちゃんが来てくれて、クラスのみんなに、綺麗なおねえさんだねって言われて、自慢のおねえちゃんでした。いつもおねえちゃんには沢山のアドバイスをもらってました。お姉ちゃんが選ぶものはいつも役にたつものばかりだった。それは今でも変わってなくて何でも頼りになるおねえちゃんです。いつもありがとう。

〜小学生の頃は活発な男のこ・・・〜
小さな頃から女の子と言うよりは、活発な男の子の様に育ちました。
小学校の頃は1年生で友人となった伊藤里奈さん。今は結婚して山下里奈さんになりましたが、私は里奈と出会いが今では本当に感謝してます。
里奈とは、小学生の頃毎日遊ぶ日々だった。里奈に姉妹が居なかった事かた私と里奈は姉妹の様に育ちました。
日曜日になると里奈のファミリーがいつもどこかに連れてってくれて、思えば、日曜日に連れてってもらうレストランでナイフとフォークの使い方も里奈のお父さんとお母さんに教わりました。それが今では、お父さんとお母さんのおかげでナイフもフォークも使える様になって、本当にありがたい事だったと思う。今でも私はその時の感謝の気持ちは忘れてなくて私にとってはなくてはならない、仲良しのファミリーです。

そして小学校5年生の頃の出来事・・・
私は男の子とケンカして私は腕をほうきでたたかれ、私は痛いながらもやり返し、そのほうきを振り上げて、そのまま足へたたきつけました。その男の子も私も怪我をして、そのまま病院へ。
その当時の担任の橋本 正典先生は今でも、実家にケーキを買いに来てくれます。逢うたびにあの時のチャンバラごっこは忘れないよって言われます。それくらい活発な女の子でした。

〜バスケットボールに出会う〜
小学校4年でバスケット部を始めて、そこでスポーツを通じて友達が沢山増えました。
5年生で試合に初めて出場して、6年でレギュラーになりセンタープレイヤーとしてこの先20年バスケットをする事ができた。
このバスケットを通じて学んだ事は、努力すれば何でも出来るという事と常に仲間を大切にする事を学んだようにおもいます。


〜中学・高校を出て、洋菓子の学校へ〜
中学・高校も大好きなバスケをのびのびとして、そして受験となった時、その当時私はインストラクターになるのが夢だったし、全然愛知県から出るつもりもなかったのですが、父と母の姿を見てたら、そんな事も言えず、私は、洋菓子の道へ進むために、東京の学校へ。
エコール辻東京へ進学して、洋菓子を学んだ。ケーキと言うのは本当繊細なもので、毎日が本当大変な授業のカリキュラムでした。
まだその頃は洋菓子の道へ進むか、他の道へ行くか迷いがある時期でもあったのです。


でも専門学校の間に、サービスも学びたくて、ファミレスやレストランでアルバイトをして接客を学びました。ファミレスの細かなサービスから従業員の指導の仕方など沢山の事を勉強することができました。
ファミレスとレストランの接客の経験からさらに自分自身の接客をしっかり学ぶことでお客様の目線で物事が見れるようになりました。


〜そして卒業・・洋菓子の世界から酵素風呂の世界へ〜
専門学校を卒業、そしてアルバイトしながら就職活動しているその時・・・
働きすぎたっだ私。突然の頭痛に襲われ、病院へ行くと、それは残酷な診断結果でした。プロラクチン産生下垂体腺腫と言う病気になりました。
その病気は薬で完治する事はなく、手術でも60%の確率しか完治しないと言われ、まだ若いから手術はやめた方がいいと先生に言われて、薬で腫瘍を散らす治療をしましょう。と言われました。
洋菓子の世界は本当に体力勝負の世界。悩んだあげくにまずは病気を完治する事を考え、治療を選択。
その時私は、知人から紹介で、その病気には、この酵素風呂に入るといいんじゃないかと言われ、酵素風呂がとっても体にいいと聞き、意を決してこの酵素風呂の世界で働く事にきめて、酵素風呂のお店で働きながら体を治すのを決断しました。

酵素風呂は自然治癒力を最大限に効果が出るので私は薬もやめて酵素風呂で体質を変える事に努力しました。そのおかげで病気は完治し、今ではとっても元気になる事ができたのです。主治医の先生もこれには本当に驚いてました。

〜そして酵素風呂の世界から、また洋菓子の世界へ〜
そして時は2011年・・・。
小さな頃から父と母の背中を見て育ってきた私。何かの仕事で独立したいと思っていたある日の事。
私は実家に帰った時に、父と母に「お店が今不景気で大変だからなんとかしてほしい。実家のお店をやらないか」と相談された。


48年父と母が作り上げてきた会社を受け継ぐのは私には少し重かったのです。

しかし父と母には
そして私は、会社を受け継ぐのではなく、その父と母の技術を私なりの方法で表現する事により新しい物がつくれるのではないか?と考え、私自身がスウィーツプロデューサーとなり、商品の素材をこだわり、母の48年の熟練された技術とコラボレーションして、新しく生まれ かわった商品を2012年ベラノッテとしてオープンする事になりました。
酵素に携わって10年、その経験を生かし、職人である母とともに、時間をかけてレシピを作り直し、新しい日本酒ケーキを開発致しました。
母と私の絆から生まれたこの日本酒ケーキ。母とともに一緒に考える事ができたのが私にとってはとても嬉しいです。
この絆が商品を通じて、幸せなひとときを過ごして頂きたいのが私の思いでもあります。
まだまだ新米社長で至らない私ですが、職人である母とともに、1つ1つ丁寧にお届け出来る商品を作りつづけたいと思っております。
まだまだ売り上げも少なくて大変な時期ですが、一生懸命努力していきたいと思います。
そして、酵素に命をたすけられた私は、同じ醸造技術で生まれた日本酒のケーキに携わることで発酵技術への恩返しができればと思っています。
最後までつたない文章にお付き合いいただきましてありがとうございました。